日比谷から東京駅へと行く濠端の道の混雑も一通りではなかった。私は其処にも立派な表現派の絵の展(ひろ)げられてあるのを見た。

『何しろ、あそこいらは、大変でしたよ』
 こうその夜そこに避難したH君は言った。

『そうでしょうね』

『何しろ、京橋、日本橋、築地の方面の人は皆なあそこに出て来たんですからね。大した騒ぎでしたよ。とてもお話にも何にもなりはしませんよ』

 こうH君は言って、『日本橋の方面から来た人は主に呉服橋から此方へと入って来たんですけども、常磐橋の内が焼けて、あそこが一ロになったもんですから、それは大変でしたよ。それはね、早くあそこを渡った人は車ぐらい曳いて入って来られたでしょうけれど、あとになっては、とても荷物なんか持って入れませんでしたからね。皆なあそこで、持って来た荷物も何も放ったらかして、命カラガラ東京駅から宮城の方へと入って行ったんですからね……。

 それに、あとでは呉服橋がとても渡れない……そうかと言って、ぐずぐすしていれば、あとから火に焼かれるというので、ドシドシあそこに飛び込んだ人が随分ありましたよ。あそこの堀割にも随分死屍(しがい)がありました』

『そうですかねえ』

『何しろ、どんな家屋でも、燃えるものさえあれば、皆な燃えたんですからな。その時分になっては、もう誰も消そうなんて思うものは一人だッてないんですから。燃草(もえくさ)のあるところへは、どこまででも焼けて行くという形なんですから。あの呉服橋の中のところが焼けるので、後には、あそこは熱くって通れなくなった——』

『それで、君もあそこで荷物を焼いたんですか?』

『え、え、綺麗さっぱり! あそこまでは、車に1、2台引張って来たんだけれども、もうどうすることも出来ない。これは、まごまごすれば命がないと思いましたから、思い切って、妻子を伴(つ)れて、あそこをわたってしまった……。実際、渡ってよかった。30分おくれると、どうなったかわかりやしません!』

『それで、あとで行ってみましたか?』
『荷物ですか?』
『ええ』
『行って見るには見ましたけれども、すっかり焼けてしまっていましたよ。車の梶棒のところだけ残っていましたよ』
『ふむ!』

 私はこう言うより他に為方(しかた)がなかった。

 H君は言葉をついで、『それに、あの宮城の中の広場が立錐(りっすい)の地がないほどでしたからね。それは何とも言われやしませんよ。そして皆なわくわく震えているわけなんですから……』

『そうでしょうな……。それで、あそこの広場は、暗くはなかったですか……』

『くらいどころか?……火が昼のようでした。それに、月もありましましたね。ちっとも暗いなんて言うことは考えませんでした。』

『あそこに一夜露宿して、様子がわからないんで2日の昼ぐらいまでぐずぐずしていましたが、四谷の方は大丈夫だッていうので、それから此方へやって来ました』

『その時はもうずっと此方へ来られたですか。別に危険も感じなかったですか?』

『そうですね。麹町に来て、びっくりしました。それに、まだ盛に燃えてるところがあるんですからね。その時は、何処をどう通って来たか、自分にもわからないくらいですが、三宅坂から隼町の方へと入って、清水谷の傍を通って四谷見附に出て来たんですね……』

 私はそのH君の話を思い出しながら、濠端に添った路を馬場先門の方へと行ったが、そこからは、二重橋前の広場に避難している人達のテントの一杯に張られてあるのが手に取るように見えた。宮城の白壁の一角の大きくひびの入っているのもそれと遥かに指さされた。

 凱旋道路の向う側の石垣が一(ひと)ところひどく崩れて濠の中に落ちていたが、それが避難民の行水をつかったというところであるらしいのが私にもわかった。私はそこで、その凱旋道路で、警視庁の焼けるのを見ていたという人の話を思い出した。その時分には帝劇は大丈夫だろうと思っていたということであった。それが忽(たちま)ちにして火になった。まるで気もないと思われたような屋根の真中から火を噴き出した。

『どうも唯事(ただごと)じゃないような気がしましたよ。何ともないと思ったところからドシドシ火が出て行くんですもの……』

 こうその人が言ったことを私は思い出した。

 馬場先から和田倉、この間の大きな建物も、大抵は破損した。中でも内外ビルデングの崩壊した下には、今だに死屍が30や40埋められてあるというほどあって、いかにも凄じい光景だった。

《なるほどこれでは、ちょっと手がつけられない……》

 こう私は思った。丸の内ビルデングの大きな建物にもところどころに大きなひびが入っていた。

 丸の内ビルデングは、新たに出来上ったばかりで、当時の流行物の一つになっていたので、震災の時の噂は非常であった。やれ、あの大きな建物が倒れたの、やれ、あそこに行っていた人達の中で2、300人はその下敷になって死んだのといろいろな風評に立てられたが、そうしたことは皆なうそで、建物も屹然として立っているし、そこで怪我ぐらいしたものはあったにしても、死んだものは殆どなかったということもわかって来た。

 そこにつとめていたB氏は話した。

『何しろ、下りるったッて、容易じゃないですからね? 却(かえ)って、下りようとして、壁が落ちたり何かして、怪我したものがあるんですからね? ああいう時は、室内にいる方が却って好いですね?』

『それで、君は室内にとどまっていたんですか?』

『そうです……』

『それはえらいな……。そしてあそこにいたものは、誰れも皆なそうしていましたか?』

『室内に残っていたものの方が多いと思います……』

『死ぬ覚悟をきめたわけですね?』

『そういうわけでもないが、あの際、どうもしようがありませんもの……。それでも最初の地震が少し落附いた時、慌ててあそこから飛び出して行ったものはかなりあります……』

『じゃ、君は、あの揺り返しの時にもあそこにいたんですか?』

『そうです……。あの時は、おや、これは大変だ……。さっき出れば好かった! と思いました。為方がないからテイブルの下に身を入れていました……』

『それはえらかったですな……』

『そのかわり、あの第2震が止むと、急いで、何も彼も置いて、慌ててあそこから出てしまいました! 矢張(やはり)、これはいかん! と思ったんですね』

 こう当時を思い出すというようにしてB氏は言った。

 私は丸の内ビルデングから東京駅の方へと行った。そこは依然としてもとの東京駅であった。びくともしなかった。壁すら一つ落ちていないようだった。私は一種の勇ましさを感ぜずにはいられなかった。

《矢張本当に力を入れたものか、どうかということは、こういう非常の時にわかるんだ。本ものはびくともしないんだ。》
 
 こう私はロに出して言った。私はじっとして立ってそれを眺めた。

 私はつづいてこのあたりが、大東京の中心になる時代のことを頭に浮べた。この大破壊の結果として、今度こそは本当にこのあたりが立派なものになって行くのであろう。一方は日本橋に、一方は京橋に、更に他の一方は銀座へと接続して行くようになるだろう。その時こそ、始めて、外国の都会に比べても決して恥かしくないような都会の中心が出来るだろう。

 それこそ全く純粋な東京——江戸趣味などの少しも雑(まじ)っていない純粋な東京が蜃気楼のようになって此処にあらわれて来るだろう。そうすれば、この大破壊も決して徒為(とい=無駄)ではなかったと言えるだろう。私はこんなことを考えながら、じっとそこに立尽した。