紀元2550年・2600年奉祝

2600年の奉祝
2600年の奉祝


 明治5年以降、日本では西暦ではなく「皇紀」を使用していました。皇紀とは日本の建国(神武天皇即位。西暦で言えば紀元前660年)から数え始めた紀年法のことで、「紀元」とも言いました。紀元元年が天皇制の始まりですから、まさに天皇の歴史と国の歴史が一致するわけです。

 当然のことながら、皇国日本にとってキリのいい紀元2550年(明治23年=西暦1890年)には、さまざまなイベントが企画されました。主なイベントは、

●神武天皇が即位した場所に橿原神宮を創設
●金鵄(きんし)勲章制定
●宮中における雅楽の上演
●亜細亜大博覧会(結局中止)

 といったところ。いまいち話題性に欠けてますね。


紀元2600年奉祝
拡張整備以前の橿原神宮境内


 で、長引く戦争で国民生活が悪化し始めた昭和15年(皇紀2600年)、今度は非常に大きなイベントが目白押しとなりました。まさに日本の「国体」はこの年をもって絶頂に達したと言っても過言ではないでしょう。

 さて、紀元2600年を迎え、国家が企画した主な奉祝イベントは、

●橿原神宮と畝傍山東北陵の拡張整備
●代々の天皇陵の参拝道路の改良
日本万国博覧会の開催(チケット発売するも、日中戦争の影響で中止)
●第12回オリンピック東京大会の開催(1940年9月21日〜10月6日で決定も、日中戦争の影響で返上)
●国史館の建設、「日本文化大観」の編纂
●紀元二千六百年式典

 などです。


紀元2600年奉祝
幻の日本万国博覧会入場券!

紀元2600年奉祝
幻の東京オリンピックのマーク


 万博も東京五輪も中止となりましたが、日本政府は1940年11月10日から5日間にわたって「紀元2600年記念式典」をおこないました。

 この日、全国の神社で臨時祭典が開かれました。その際、「浦安の舞」を奉納するようにとのお達しです。これは昭和天皇の「あめつちの かみにそいのる あさなきの うみのことくに なみたたぬよを」に舞をつけたものです。

2600年奉祝
浦安の舞


 街には奉祝の花電車が走り、提灯行列や旗行列で盛り上がる中、お祭り騒ぎは11月14日までの5日間続きました。永井荷風はこの騒ぎを

《この御許しは年末にかけて窮民の暴動を起さんことを恐れしが為にて、来春に至らば政府の専横いよいよ甚だしくなるべし》 (断腸亭日乗)

 と書いています。
 実際、11月15日には「祝ひ終つた さあ働かう!」のポスターが貼られ、世の中は急速に暗い時代になっていくのでした。


紀元2600年奉祝
宮崎に建てられた八紘一宇の塔(名前を変えて現存)

紀元2600年奉祝
今も京都市内に残ってる皇紀二千六百年記念の石柱


更新:2002年12月17日


<おまけ1>

 経済学者の野口悠紀雄は、日本的経済システム(官僚による統制、間接金融、終身雇用、年功序列など)は、すべて1940年に生まれたとしています。これを「1940年体制」と呼んでいますが、戦時統制の残滓は、いまも日本社会を覆っているのですね。

<おまけ2>

 この年の紀元節の勅語を掲載しておきましょう(原文に句読点はありません)。

《朕(ちん)惟(おも)フニ、神武天皇惟神(いしん)ノ大道(だいどう)ニ遵(したが)ヒ、一系無窮(むきゅう)ノ宝祚(ほうそ=天皇の御位)ヲ継ギ、万世不易ノ丕基(ひき)ヲ定メ、以テ天業ヲ経綸(けいりん)シタマヘリ。
歴朝、相承(あいう)ケ、上(かみ)仁愛ノ化(か)ヲ以テ下(しも)ニ及ボシ、下(しも)忠厚(ちゅうこう)ノ俗ヲ以テ上(カミ)ニ奉ジ、君民一体以テ朕ガ世ニ逮(およ)ビ、茲(ここ)ニ紀元二千六百年ヲ迎フ。
今ヤ非常の世局(せいきょく)ニ際シ、斯(こ)ノ紀元ノ佳節ニ当ル、爾(なんじ)臣民、宜(よろ)シク思ヲ神武天皇ノ創業ニ騁(は)セ、皇図(こうと=天皇の考え)ノ宏遠(こうえん)ニシテ皇謨(こうぼ=天皇の計画)ノ雄深(ゆうしん)ナルヲ念(おも)ヒ、和衷(わちゅう)戮力(りくりょく)益々国体の精華(せいか)ヲ発輝シ、以テ時艱(じかん)ノ克服ヲ致シ、以テ国威ノ昂揚ニ勗(つと)メ、祖宗(そそう)ノ神霊ニ対(コタ)ヘンコトヲ期スベシ。

御名御璽
昭和十五年二月十一日》

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