原爆の被害写真

原爆を伝える第一報
原爆を伝える第一報・昭和20年8月8日
(ちなみに朝日新聞に初めて原子爆弾の文字が掲載されるのは8月16日でした)


 2007年7月、長崎県出身の久間章生防衛大臣が、原爆投下を「しょうがない」と発言し、その責任を取って辞任しました。
 今さらこの騒動の検証はしませんが、発言の要旨だけ書いておきます。

「勝ち戦とわかっているときに原爆まで使う必要があったのかとは思うが、これで戦争が終わった。ソ連参戦を防ぐことや戦後の占領政策を考えたらしょうがない。アメリカを恨むつもりはない」

 久間大臣は戦争の早期終結で北海道が占領されずにすんだなどとも言ってますが、ここで重要なのは、「戦後の占領政策」という言葉。はたしてアメリカは本当に戦後のことまで考えていたのか?
 
 あんまり騒がれませんでしたが、2007年8月8日、時事通信がすごいスクープを打ちました。

 長崎への原爆投下後、米軍の上層部が3発目を東京に投下するつもりだったことが、極秘文書で裏付けられたというのです。従来、原爆投下の目標地点は広島、長崎、小倉、新潟だと言われていましたが、何のことはない、東京も完全に狙われていたのです。大空襲で焼け野原にした上、原爆まで投下しては、戦後に東京で占領政策ができるわけもありません。

 つまり、米軍は戦後処理なんてほとんど考えていなかったといえるわけです。

 では、原爆にはどういう意味があったのか。

『アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか』という本では、気弱なトルーマンが周囲に決断力を見せるため、原爆投下にゴーサインを出したとしています。トルーマンの日記には「野蛮で狂信的なジャップ」「野獣として扱わなければ」など偏見に満ちた言葉が目立っていたそうです。ちなみに2発の原爆でも日本が降伏しなければ、9、10、11月に3発ずつ、12月に7発の計18発の原爆が投下される予定でした。

『原爆を投下するまで日本を降伏させるな』という本には、トルーマン大統領がポツダム宣言の草案にあった「天皇の地位保全」部分を削除するなど、あえて日本がポツダム宣言を受託しにくくしたことなどが書かれています。
 
 こうした事実を受けて、漫画家の小林よしのりは、「原爆は人体実験であった」と明言しています。
 確かに原爆の開発には3年の歳月と20億ドル、最大で12万人の人間が動員されています。これだけの“投資”を正当化する必要はありました。
 
 原爆は1945年8月6日午前8時15分、広島に投下されました。こちらはウラン235を濃縮したタイプで、約14万人が死亡。
 次いで8月9日午前11時2分、プルトニウム239を使った原爆が長崎に投下されました。犠牲者は約7万人。

 2種類の原爆を使ったことで、より効果的な人体実験が成功したわけです。
 さらにいうなら、原爆投下後に広島、長崎に設置されたアメリカの原爆傷害調査委員会では、被爆者の治療が禁止されていました(2007年8月6日、朝日新聞)。人体実験中に治療なんてするわけがないと、うがった見方も可能でしょう。

 では人体実験の成果としての原爆被害写真を公開しておきます。この写真はけっこうショッキングなんで、これまで本サイトでも公開を自粛してきました。
 しかし、やっぱりこういった写真を見る機会が少ないからこそ、原爆を「しょうがない」と言い出す人間が出てくるんだと思い、考えを改めました。

原爆の被害を初公開したアサヒグラフ
原爆の被害を初公開したアサヒグラフ


 なお、この写真は『アサヒグラフ』1952年8月6日号からの転載です。
 実はこのアサヒグラフが、日本で初めて原爆の被害を公開した雑誌なのです。なぜ1952年かというと、サンフランシスコ講和条約が1952年4月28日に発効し、日本が独立するまで、原爆に関する情報の公開は厳しく制限されていたからです。

広島の原爆
広島

広島の原爆
広島

長崎の原爆
長崎
 


 さて、広島を焼き尽くした原爆の炎が、現在もひっそりと残っているのを知っているでしょうか?

 1945年8月6日、呉の陸軍駐屯地所属の山本達雄軍曹(当時29歳)は、広島へ向かう列車のなかで原爆を目撃しました。広島市内には達雄氏の叔父が書店を経営しており、あわてて駆けつけたものの、あたり一面がれきの山。叔父の姿は見つけることができませんでした。

 9月15日、山本氏は地下書庫でくすぶっていた火を懐炉(かいろ)に移し、形見代わりに故郷の福岡県星野村に持ち帰ります。その火が、現在まで消えずに残っているのです。

上野公園に分火された「平和の火」
上野公園に分火された「平和の火」

 日本各地に分火された火は今では「平和の火」とされていますが、言うまでもなく、この火はもともとは恨みの炎でした。叔父を殺され、自らも被爆者になった山本氏は、「この火でアメリカ全土を焼き尽くす」というのが口癖でした。

「原爆を落とした米国は許せん。ワシントンからサンフランシスコまで焼き払うための火種ば持っとる」……この怨念が、種火を23年も消さずに維持した力の源泉でした。その後、村が火の管理を引き継ぎ、怒りの炎は「平和を願う火」へと変わっていったのです。

 2004年5月、山本氏は亡くなります。晩年は「復讐合戦を続けていては戦争は終わらない。自分が断ち切らなければ」と言っていたそうですが、本当に怒りの炎は鎮火したのかどうか。

 人体実験をされても「復讐の連鎖」を断ち切ることが正しいのか? それとも60年経っても「怨念の炎」を燃やし続けることが正しいのか? 正直言って、戦後世代の僕にその判断はつかないのです。

 けれど、こうした過去を見ずに「平和」という薄っぺらな言葉を語るのだけはやめようと思うのでした。



制作:2007年8月15日

<おまけ>
 日本が独立する1952年以前に原爆という言葉が一切使えなかったわけではありません。
 たとえばこれは雑誌『少年科学』1950年4月号の表紙ですが、原子爆弾探知破壊機と書かれています。
 現在のMD(ミサイル防衛)の概念がこんなに早い時期からあったんですね。ちなみに1960年代には、弾道弾迎撃ミサイルが完成しています。
原子爆弾探知破壊機
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