原爆の広島
「重松日記」と3カ月後の調査報告

原爆で被災した広島
被災した広島

 

《その時、電車の左側三メートル位の所で、フラッシュ様の、とても強烈な光球が眼に映じた……が、その後は、真くらで、何も見えなくなってしまった。どす黒い何かに包まれてしまった》

 井伏鱒二『黒い雨』の元ネタである『重松日記』(重松静馬)は、原爆が光った瞬間をこう綴っています。この瞬間、31万の人口を誇った日本第7位の都市が壊滅しました。そして第5師団司令部とともに、国宝・広島城もこの世から消え去ったのでした。

 というわけで、今回は、消え去った広島の写真を発掘します!


国宝・広島城(原爆前)
1599年、毛利輝元が築城した国宝・広島城(原爆前)



 重松静馬は、原爆後の広島を歩き回ります。


戦前の広島マップ(昭和10年)
戦前の広島マップ(昭和10年)



《紙屋町の電車交叉点にたどりついた。垂れた架線と電線は、交叉点だけに非常に多く入り乱れていて危険だ。左に折れて、相生橋から左官町に出ようと思ったが、熱くて進めそうもない。右に曲がっても熱くて通れそうもない。

 ……西練兵場の入口に来た。土手の西面の草は焼けて、何一つない。練兵場の樹木は炭細工の様だ。葉は一枚もない。仮の陸軍病院も師団長官舎も護国神社(注・地図の招魂社)も広島城もない。

 ……護国神社の堤に近寄った。堤に歩哨が立っている。近寄ってみると、堤に背をもたせて眼をぱっちりと開いた死人の歩哨だ。広島城跡の西角の石垣に、出前持風の青年が、自転車に乗ったまま、石垣にもたれて死んでいた》(「重松日記」)

原爆前の官祭広島招魂社
原爆前の官祭広島招魂社(昭和9年、旧招魂社を大々的に改築)



『重松日記』によれば、原爆ドームは次のように書かれています。

《広島屈指の頑強な建物と云われた産業奨励館と物産陳列館が、上半身を無惨に打ち毀されて、死人の様にたっている》

 原爆ドームのもとは、大正4年(1915)に完成した産業奨励館。昭和20年8月6日午前8時15分、この建物から南東約160m、高度約600mで原爆が炸裂しました。

原爆前の産業奨励館
原爆前の産業奨励館



 原爆の記録はたくさんありますが、たとえばこんな証言も残されています。

《「住吉橋あたりから、道にもどこにも黒焦げの死体です。今でも忘れられないのは、水道のまわりに群がる死体でした。群がるというより積み重なって……その口が水を求めて、どの口もひょっとこのような形になっているんです。一番下の人はどうかというと、地面に唇をつけ、口の中は泥でいっぱい……。流れてくる水に口をつけて吸いとったんでしょうか……。そんな中を母は目もくれずにひたすら歩くんです……」》(『広島第二県女二年西組』)

広島大本営跡
大本営跡



 建築家・都市計画家だった内田祥文は、敗戦から3カ月後の1945年11月、広島と長崎の原爆の被害調査に出かけます。その記録が『科学画報』1946年1月号に記載されています。当時の世相がよく分かるので、長文で引用しておきます(読みやすさを優先し、一部改変しています)。

原爆直後の広島
原爆直後の広島



 午前は己斐(こい)駅(=現在の西広島駅)付近を調査、午後爆心地へと向かう。
 広島の地形は長崎と異なり、単純である。街は、南に海を有し、他の三方は丘陵をもってめぐらされた平野の中央を北から流れて7つの支流に分かれる太田川の三角州上に発達し、その周辺は山裾にまで及んでいる。

 当市の攻撃は長崎市に先だつこと3日、昭和20年8月6日、午前8時15分頃、宇品東北部より西北進せるB29によって加えられた。原子爆弾の炸裂地点は、護国神社南方約400メートル、高度約500メートルで、爆心下にあたる元安橋はだいたい市の中央である。

産業奨励館近くの元安橋
産業奨励館近くの元安橋


 
 被害状況より見ると、この炸裂高度は、長崎に比し、やや高いと思われた。焼失地域は、東西約5.5km、南北約6km、面積約25平方km、死傷約10万、と言われる。

 被害の程度は、だいたい長崎と大差ないが、長崎に比して、爆心地付近においては弱く、外周部においては強大なるもののごとくであった。これは、炸裂地の高度および地形の差が多く影響したものと思われる。被害を木造家屋についてみると、爆心より2km以内は全潰、5km以内は壁、天井、建具の大破がみられ、7km以内においても雨戸、障 子、襖の被害が見られた。

 広島の街を歩き、まず感ずることは全般的に活気に満ち満ちていることである。これは、長崎の爆心地が、都心を離れた地点であるにもよるであろうが、また、人情の差異からでもあるようであった。

広島県庁
広島県庁

広島市庁
広島市庁



 市民達が次々と復帰してくる原因については、次のような興味ある話を聞かされた。
 
 原子爆弾投下直後は、軍都と言われただけのことはあり、この未曾有の被害にもめげず、人々はそのあとかたづけに懸命であった。ところが、間もなく終戦となり、原子爆弾のいかなるものかが、次第に市民に知られていく一方、また次々と新たな犠牲者が増加するに及んで、広島から人々は次第に離れ始め、一時は枯死の状態となった。

 しかし、各地にのがれ去っていったものの、そうした人々の大部分は、次第に「自分の家」「自分の土地」でない生活の不満に悩まされ始め、昔の広島が忘れかねず、自分の焼失地を尋ねて来るものが多くなった。

広島製紙所
広島製紙所


広島ガス
広島ガス



 彼らは、そこで「75年間は生物はことごとく死滅する」と伝えられている大地のなかから、すくすくと芽生え出した新しい草や、あるいは爆風で打ち倒され、焼失した樹の根本からたくましくも伸び上がった若枝を発見したのであった。「再び住めぬものとのみ信じて打ち捨てておいた自分の土地からは、たくましくも次の時代の精力が、若草となり、若芽となって萠出している」という事実こそは、無条件で、再びこの土地に家々を建てることを彼らに決心させた――と言うのである。

 挿話というものが新しい時代の科学のなかにも残されるものであるならば、この事実こそは新日本建設の一挿話ではあるまいか。

広島名物「牡蠣」食堂
名物「牡蠣」食堂



 爆心地付近に入った私は、商工会議所の塔より四方を鳥瞰し、また元安橋の上にもたった。帝国銀行広島支店の建物は、真上から強大な圧力を受け、コンクリートの梁が中央で折れ曲がり、恐るべき破壊状態を示している。練兵場を横切り、広島城趾を望む。この付近は爆心下より800メートル程の地域であるが、大木の根こそぎになったものが多い。城趾の中央前面にははるかに映えた青山を背景に、細くて長い竿の先に小さ白旗が一つなびき、印象的であった――。

戦前の太田川河口
太田川河口


更新:2023年8月1日

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