明治宮殿の世界

明治宮殿の憲法発布式
明治宮殿の憲法発布式


 大日本帝国憲法は、1889年(明治22年)2月11日、皇居で発布されました。そのときの画像が上の絵です。
 憲法は突然出来たわけではなく、当然、それ以前から、内容を詰めるべく会議が繰り返されていました。もちろん、その会議も皇居で開かれています。
 で、下が1888年(明治21年)6月18日の枢密院憲法会議の画像。

枢密院憲法会議
枢密院憲法会議


 同じ皇居なのに、どうも雰囲気が違いますね。それもそのはず、この8カ月の間に皇居に壮麗な建物が完成し、天皇が引っ越ししています。新たにできた建物を「明治宮殿」と呼んでいます。

 憲法会議が開かれた場所は「赤坂仮皇居」の御会食所(別殿)で、その後、伊藤博文の公邸に移築されました。現在は明治記念館の「憲法記念館」として結婚式場に使われています。

明治記念館の「憲法記念館」 明治記念館の「憲法記念館」
明治記念館の「憲法記念館」と内部の装飾


 一方の明治宮殿は、1945年(昭和20年)5月25日の空襲で全焼しました。内壁の杉戸絵は焼け残りましたが、当時の栄華を思わせるものは白黒写真くらいしか残っていません。
 そこで、今回は明治宮殿の画像を一挙公開しておきます。

 明治維新で、天皇が京都から東京に移ると、旧江戸城「西の丸御殿」が皇居となりました。しかし、1873年(明治6年)5月5日、下女の失火により西の丸御殿は焼失します。

 当時はまだ明治政府ができたばかりで、予算難が続いていました。そこで、明治天皇

《国用夥多(かた)の時に際し、造築の事、固(もと)より之を丞(じょう)にするを希(ねが)はず、朕が居室の為に民産を損し、黎庶(れいしょ=人民)を苦ましむること勿(なか)るべし》


 と太政大臣に命じます。皇居の造営をしばらく禁止し、自身は赤坂離宮に移りました。

 この赤坂離宮はもともと紀州家の屋敷で、実は非常に狭い家でした。天皇の御座所は、信じられないことに15畳一間しかなかったのです。もちろん、ここで食事もとります。部屋の装飾も質素で、「床の間」と「違い棚」くらいしかありませんでした。
 あまりに狭く、1884年(明治17年)には家を新築しますが、それもかなり粗末なものでした。

 明治宮殿は、旧江戸城西の丸に建設されることが決まり、1884年4月に着工、1888年10月に完成しました。以後「宮城」と称されるようになります。
 では、引っ越しはどのように行われたのか。明治天皇のそばについていた命婦(みょうぶ)平田三枝の証言が残されています。

「移転の前に、聖上(明治天皇)は宮殿の奥まで見て回り、自分の荷物をどこに置くか、ひとつひとつ札を貼らせていきました。
 翌日から私を含めた3人が、晩に赤坂で荷物を確認し、翌朝受け取っては指定の場所に設置していきました。毎日、作業が終わると、再び赤坂に戻って次の荷物の確認をするのです。それはそれは大騒ぎとなり、荷物の運搬だけで1カ月かかりました」(『明治大帝』より意訳)

 宮城の造営は、いわゆる労働者ではなく、かなり身分の高い人たちだけが作業にあたりました。女性も土砂を運んでおり、その様子を見た明治天皇が「よう働いてくれる。ご苦労なことじゃ。うんと飲ましてやれ」と山のような酒樽と大量のスルメを下賜したと記録されています。

明治宮殿地図
皇居図解(国会図書館『宮廷御写真帖』より)


 歌人の税所敦子によれば、移転当日は雲ひとつない快晴でした。楽隊の音楽に乗って移動する天皇の大行列は、道すがら大歓迎を受けました。多くの人がひと目拝もうと集まり、正装した学生が歌う「君が代」に送られ、朝10時頃、皇居に到着。そのとき、万歳の声が周囲に響きわたったといいます。

 明治宮殿は和風木造(御所造り)で、広さ5800坪。屋根には銅瓦がふいてありました。
 建物は「奥宮殿」「中段」「表宮殿」の3エリアに分かれていました。「奥宮殿」はプライベートな生活の場、「中段」は天皇が政務を行う御学問所、内謁見所、侍従たちの詰所があり、「表宮殿」が宮中儀礼のための場所でした。

 では、表宮殿に行ってみましょう。
 まず二重橋を渡ると、目の前に唐破風屋根の車寄せが現れます。ここが公式の入口ですが、国賓や公使でなければ、右手の東車寄せが入口となりまし た。

明治宮殿車寄せ
明治宮殿車寄せ

明治宮殿車寄せ内部
明治宮殿車寄せ内部
(国会図書館『明治工業史・建築篇』より)


 車寄せの先、中庭の奥に謁見所(正殿)。広さは160畳ありました。

明治宮殿正殿(謁見所)
明治宮殿正殿(謁見所)

明治宮殿正殿(謁見所)
明治宮殿・正殿内部


 正殿から右手に東溜の間、左手に西溜の間。ともに175畳あり、臣下の控え室となりました。

明治宮殿・東溜の間
明治宮殿・東溜の間

明治宮殿・西溜の間
明治宮殿・西溜の間


 噴水のある中庭の奥が豊明殿で、ここが食事をとる饗宴所(食宴所)となります。

明治宮殿・豊明殿
明治宮殿・豊明殿

明治宮殿・豊明殿
豊明殿の内部


 豊明殿の脇が千種の間などの後席間となっています。
 なお、西溜の間よりさらに左手が鳳凰の間など「中段」につながり、その奥が「奥宮殿」となります。

 正殿や豊明殿の天井は二段になっていて、極彩色に塗られていました。
 天井画の意匠は、正殿や西溜の間が東大寺(正倉院)にまつわる紋様。豊明殿は厳島神社所蔵の絵紋・手向山神社所蔵の鐙(あぶみ)紋などが採用されました(『明治工業史・建築篇』による)。
 奈良・平安時代のモチーフを選んだのは山高信離だとされますが、理由は、やはり「天皇家」が強大だった時代になぞらえたからでしょう。

 床はすべて板敷きで、建具は洋式ですが、装飾は和洋折衷式。

 建物そのものの設計は、終戦まで皇室建築の造営や維持・管理を受け持った内匠寮(たくみりょう)です。
 内匠寮の起源は728年(神亀5年)までさかのぼりますが、再設置されたのは1885年(明治18年)で、皇室の建築・土木・庭園に関するすべてを司りました。

 内匠寮は明治宮殿以外に、離宮、御用邸、東京・京都・奈良の帝室博物館、宮家の邸宅などを設計しています。
 ここには名高い建築家が2人いて、ひとりが明治宮殿を設計した木子清敬(きこきよよし)、もうひとりが現在の迎賓館(赤坂離宮)を設計した片山東熊です。皇室建築において、和風を代表したのが明治宮殿で、洋風を代表するのが赤坂離宮となります。
(なお、戦後、内匠寮は主殿寮(とのもりょう)となり、現在は宮内庁管理部となっています)


京都国立博物館
恩賜京都博物館(現在の京都国立博物館)


 さて、明治宮殿ではさまざまな国家イベントが開かれます。

 たとえば、憲法発布式では、朝9時30分に天皇が賢所で「憲法発布の御告文」を読み、10時20分頃に正殿で式典が開かれ、「大日本帝国憲法発布の勅語」が出されました。
 夜7時から豊明殿で天皇・皇后臨席の上、119名が陪食。このとき南留の間、北溜の間などの別室でも、それぞれの位に応じた食事会が開かれました。そして夜10時すぎ、正殿で舞楽が催され、その後、竹の間での立食パーティを最後にお開きとなりました。

明治宮殿・豊明殿
豊明殿


 1900年(明治33年)5月10日に行われた大正天皇の結婚式ではどうか。
 大正天皇(当時は皇太子)は賢所で玉串を奉納し、告文(結婚の誓い)を奏し、さらに皇霊殿、神殿で玉串を奉納した後、葡萄の間で正装に着替え、正殿で明治天皇・皇后と対面(朝見の儀)。いったん青山御所に引き揚げた後、午後3時30分、再び宮中に参内。鳳凰の間と正殿で天皇・皇族・公使らと面会し、夜6時から豊明殿、千種の間、東溜の間などで2000人規模の披露宴(饗宴の儀)を開いています。
(これ以後、神前結婚式が普及)

賢所正門
賢所正門


 同じく1924年(大正13年)1月26日に行われた昭和天皇の結婚式では、大正天皇が病気で静養中だったため、告文を奏した後、西一の間で首相と面会。当時、大正天皇は病気で静養中だったため、披露宴は5月31日に開かれました。まず豊明殿で会食し、牡丹の間でゲストと会談した後、千種の間で夜宴が催されました。

明治宮殿・千種の間
千種の間


 また、1890年(明治23年)から始まった歌会始は、「鳳凰の間」で行われる決まりでした。講書始もやはりこの部屋が使われました。

鳳凰の間
鳳凰の間


 明治宮殿は、前述の通り、1945年(昭和20年)5月25日の空襲で焼失します。その後、昭和天皇は長らく防空壕だった御文庫で過ごしました。そして、1961年(昭和36年)、吹上御所が完成、昭和天皇と香淳皇后は死ぬまでここで過ごしました。

 今上天皇は、1993年から新築の御所(吹上御所とは別)に住んでいます。こちらは鉄筋コンクリート製で、一部が2階建て。総費用は約56億円で、全部で62室もあるそうです。
 
 かつて明治宮殿では、正月などに天皇・皇后が廊下を通る直前、加熱したお香入りの水を持って歩き、ほのかな香りを残しておく習慣がありました。これを「焼き香水」と呼びます。
 こうした文化は、明治宮殿の焼失とともに失われてしまったのです。

明治宮殿の焼け跡
明治宮殿の焼け跡

制作:2015年3月3日

<おまけ>
 
 明治6年4月29日、千葉県の原っぱで行った軍事演習で大活躍したのが、近衛長官だった篠原国幹(しのはらくにもと)です。明治天皇はそのめざましい指揮ぶりに感銘し、「篠原に習え」とお褒めの言葉を与えます。この「篠原に習え」が地名の「習志野」の語源になったと言われています。
 
 演習の1カ月後、皇居として使っていた旧江戸城の「西の丸御殿」が炎上。日本橋小網町の自宅にいた西郷隆盛は、急ぎ火事装束になって、馬で皇居に駆けつけ、篠原らとすぐさま消火活動を行います。しかし、宮城は全焼し、皇室や徳川家の記録がすべて灰燼に帰しました。

 このとき、近衛兵の辺見十郎太は吉原で女遊びをしていて、火事のことをまったく知りませんでした。篠原は激怒して、切腹を命じますが、西郷隆盛は「不忠の志があったわけではない」と辺見の罪を許しました。この事件で、篠原と辺見は、西郷への忠誠心をいっそう強めます。

 篠原も辺見も薩摩藩士で、この年の秋に征韓論問題で西郷が下野すると、2人とも一緒に鹿児島に戻り、明治10年の西南戦争で揃って討ち死にするのでした。
 もし明治天皇がすぐに皇居を再建していたら、予算難で西南戦争は長引いたかもしれませんね。
明治宮殿・奥宮殿
明治宮殿・奥宮殿(天皇のプライベートな生活の場)
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