文学に登場する露店


 東京は縁日が非常に多く、ほとんど毎日どこかで縁日がおこなわれていました。

 明治18年(1885)年に刊行された『当世書生気質』には、当時の様子がこう書かれています。

《はや暮れはてし暗の夜も、街(ちまた)を照らす露店(ほしみせ)の、星をあざむく燈火に、あたりまばゆき夜の市、一山二銭の翫具(おもちゃ)店には、悟り顔の達磨、今戸焼のおいらんと膝相摩し、二本八厘の簪釵(かんざし)店には、馬爪(ばず)なまいきに鼈甲を気取って、象牙(ぞうげ)の芳町形、本名鹿の角と肩をならぶ。カンテラの油や烟(けむり)にくすぶりては、菊も隠逸(いんいつ)の名空しく、打水の露にうるほうては、石榴(ざくろ)の紅玉を包めるに似たらん。七艸(ななくさ)も既に時過ぎたれば、華ある艸(くさ)どもいと稀れにて、同じさまにて趣なき、秋蘭、蘇鉄(そてつ)など鉢植にして、ここにもかしこにも据ゑならべたる、中には根のなきものあるぞと聞きにき》

 すでに「根のない鉢植え」が売られていることがわかりますね。
 東京の縁日は珍しく、田舎から来た者にはことに珍しく見えたため、当時の新聞には「縁日情報」が掲載されていたそうですよ。



 明治22年ごろは、伝馬町の牢屋跡に、数多くの見世物がありました。ダチョウと人間の相撲なんていうのもあったそうですよ。

《それは有名な伝馬町の牢屋のあとで、いろんな見世物が、しょっちゅうかかっていた。また小あきんどが露店をならべて蠑螺(さざえ)の壷焼や、はじけ豆や、蜜柑水や、季節になれば唐もろこし、焼栗、椎の実などもうる。紅白だんだらの幕をはった見世物小屋の木戸に拍子木と下足札をひかえてあぐらをかいてる男は、手をロヘあてて
 ほうばん ほうばん 
 と呼びたてる。鎖につないだ山犬の鼻さきへ鶏をつきつけて悲鳴をあげさせるのもある。お皿のある怪しげな河童が水溜のなかでぼちゃぼちゃやるのもある。
 でろれん祭文は貝をぶうぶう吹いて金の棒みたいなものをきんきん鳴らしては
 でろれん でろれん
 というのでさっぱり面白くなかったけれど伯母さんは自分が好きだもので度度つれていった》(中勘助『銀の匙』、1921、新字に修正)

 この見世物も、まもなく廃止されてしまいました。

 同じ見世物でも、時代が下ると、かなりえげつなくなります。

《昔は人を馬鹿にした見世物が多くあった。板に紅を流したのを飾って「サア大(おお)イタチだ大イタチだ」と言うので鼬(いたち)かと思って入って見れば「板血」であったり、または「目が3つあって大きな歯の2枚ある化物だ」と言うからどんな怪物かと覗(のぞ)けば下駄(げた)が置いてあるのを見て「オヤオヤまた担がれた、ひどい事をしゃあがる」と笑うもあり、「うまく考えたな」と誉める人もあり、見物もノンキなもの。

 これは銭を取るのだから罪が深いけれど下総船橋の祭にロハ(=タダ)で見せる宝物の展覧会があった。人が仏像になって「尻喰(しりく)らい観音」だの「働らかん」と言う羅漢になって笑わせた中に一番喝采(かっさい)を博したのは野菜の見世物であった。大根の札をつけて太い足を出して見せたり、「日本一の大ソラマメ」と書いた箱の蓋(ふた)をあけて見ると一人の男が逆さになって尻を見せている。「なるほど大きい豆だ」とみんな腹を抱えたそうな。

 今は其筋(そのすじ)で八釜(やかま)しいから人を欺(だま)す見世物はなくなったけれど明治年間には「両頭のヤ
モリ」などと大きな看板を出して人を担いだ見世物があった。僕の見た時には前後に首のあるヤモリが箱の中でヒクヒクしていたが、翌日見に行った人の話に、箸でいじくっている中に継(つ)ぎ目が離れてヤモリが2つになったのを見ると、ヤモリを半分ずつ継ぎ合せたのであったそうな。
 ロクロ首の見世物も胴になる女と首の長い女と2人がかりの拵(こしら)えものであった。

 銀座の縁日にこのロクロ首の見世物が出た。或年の夏の夜、例の通り女が三味線(しゃみせん)を弾いてドロドロの鳴物(なりもの)につれ、首が3尺ばかり上に伸びる処で「キャッ」と言う声と共に、黒い布が除(と)れて女の首がまた一つ下に現われ、上の首は引込んでしまった。女の後(うしろ)からまた女が首を出して頤(あご)に咽喉首(のどくび)の作り物をぶら下げて上にせり上るのだけれど、黒い布で隠した首が出たので消えてしまったのだ。口上(こうじょう)を言っていた男は急いで幕にしてしまったが、後で聞くと縁の下へ入った野良犬が、女の足へじゃれついたのだと言う。

 河童(かっぱ)の見世物も可笑(おか)しかった。泥水の中からカッパ小僧が天窓(あたま)だけ見せる仕掛になっ
ている。その天窓を見たらタワシを細工したものらしく、蔭(かげ)で糸を引きながら笛を吹く男がいるのだが、この男は姿を隠しているのでカッパ小僧か親爺(おやじ)かわからない。

 また三つ目入道(にゅうどう)の見世物が出た事がある。額(ひたい)の真中に小さな目が一つあるので珍しい人間だと評判になったがその男は額に庇の痕(あと)があって、それが目のように凹(くぼ)んでいるのを幸い玉眼を入れて目と見せたのであった。すると或日入れた目が飛び出して拵え物が露顕したので、三つ目入道は忽然(こつぜん)と縁日から消えてなくなったと言う珍談もあった》(鶯亭金升『明治のおもかげ』)



 明治後期になると、縁日の様子はこんな感じです。以下、明治45年(1912)の谷崎潤一郎『羹(あつもの)』より。

《自分の生れた長谷川町蠣殻町界隈の灯の街ーー殊に縁日の宵の面白さ、両側に列(なら)ぶ商売の家々の電燈や瓦斯のあかりと、溝に沿うて露店を広げた縁日商人のかんてらの光りとが、左右から歩道の地面を照して其の間を通る人々の頬は、みんなつやつやと反射して輝いて居た。
 派手な中形の浴衣を着て、湯上りの薄化粧をした襟足をそよ風に吹かせ、手を取りながら游(およ)いで歩く女の群の姿に、夜は一と入(ひとしお)鮮かな、水際立つた色彩を与へて見せた。彼等はかう云ふ晩に生きる為めに、生れて来た人間の如くあでやかであつた。宗一は其の群の中に揉まれて、一緒になつて呉服屋の硝子窓の前に立ち止まつたり、絵葉書屋の役者の写真を眺めたりした。
 ステツキを片手にパナマ帽を被つて、白地の単衣の上へ縮緬の兵児帯を巻き着け、古道具屋や植木屋の店先を、気軽に冷かして廻る旦那らしい人逹もあつた。年頃の娘と連れ立つて、螢売りの籠のほとりに彳(たたず)んで居る老母もあつた。若い夫婦が唐物屋の帳場の椅子に腰を掛けて、香水の壜を買ひ求めて居ると、外に五六人の野次馬がたかつて、丸髷の恰好の好い細君の後つきを見惚れて居ることもあつた》


 昭和に入ると、林芙美子が自身の露店体験を『放浪記』に書いています。これは昭和5年(1930)刊行です。

《四月×
 今日はメリヤス屋の安さんの案内で、親分のところへ酒を入れる。
 道玄坂の漬物屋の露路口に、土木請負の看板をくぐって、奇麗ではないが、ふきこんだ格子を開けると、いつも昼間場所割りをしてくれるお爺さんが、火鉢のそばで茶をすすっていた。
「今晩から夜店をしなさるって、昼も夜も出しゃあ、今に銀行が建ちましょうよ。」
 お爺さんは人のいい高笑いをして、私の持って行った一升の酒を受取った。

 誰も知人のない東京だ。恥ずかしいも糞もあったもんじゃない。ピンからキリまである東京だ。裸になり次手に、うんと働いてやろう。私は辛かった菓子工場の事を思うと、気が晴れ晴れとした。
 夜。
 私は女の万年筆屋さんと、当のない門札を書いているお爺さんの間に、店を出した。
 蕎麦屋で借りた雨戸に私はメリヤスの猿股を並べて「20銭均一」の札をさげると万年筆屋さんの電気に透して、ランデの死を読む。
 大きく息を吸うともう春だ。この風には、遠い遠い思い出がある。
 舗道は灯だ。人の洪水だ。
 瀬戸物屋の前には、うらぶれた大学生が、計算記を売っている。
「諸君! 何万何千何百に、何千何百何十加えればいくらになる。皆判らんか、よくもこんなに馬鹿がそろったものだ。」
 高飛車に出る、こんな商売も面白いものだな。
 お上品な奥様が、猿股を20分も捻って、たった一ツ買って行く。》

 客をバカ扱いする口上も面白いですな。